内田の生い立ち〜児童期1

小学校に入った頃の話をします。

この記事を書こうと思って色々昔のことに想いを巡らせて、
思い出したことがありました。

多分小学校に入ったか、
その少し前くらいにすでに膠原病を発症していた母の指先に尻餅をついてしまったことがありました。

それが原因で母は右手の人差し指、中指、薬指の第二関節より上を
切断することになってしまいました。

さぞ、私が気にしただろうと思われるかと思うのですが、
今の今まで申し訳ないという感情を持って来なかった。

何という、ひどい娘。。。

まぁ。小さくてよくわからなかったのかもしれませんが。。。

今改めて思うとまだ20代だった母は不便だったろうし、
辛かったろうなぁと。。

今更思います。

なぜ今の今まで罪悪感を持たずにこれたかって、
それもまた両親の愛情だったのだと40年近く過ぎてようやく感じるているところです。

母は指を切断した後もいつも明るく優しく接してくれましたから。

本当にのびのびと育ててくれた母で、
私が小学校の帰りに坂道を芋の様に転がって帰って来ても恥ずかしいからやめなさいとか一切言わず、
「気をつけてねー」ってニコニコしている様な人でした。笑

そんな母とのお別れは小学校5年生、私が10才の時でした。

いつも通り小学校に行っていた私が先生から急に呼び出されて、
職員室に行ったら叔母が迎えに来ていて、

「お母さん亡くなったから」と、

伝えられて、急いで病院へ向かいしまた。

信じられなくて病院に着くまでは一粒も涙なんて出なかったのに、

病室で散々大声で泣いて。

今にして思うと迷惑だったろうなぁと思うけど、
誰も何も言わないで泣かせてくれました。

34歳でした。母の年齢をとっくに超えてしまいました。

その後のことはあんまり覚えていないんですが葬式があって、
しばらく学校も休んで。

でも一週間くらいして普通の生活に戻って行ったんだろうと思います。

父は忙しそうにしていましたが、
従姉妹や親戚のみんなが私を励ましてくれたのを覚えています。

この時期に最愛の母親をなくす経験は、
ある種、私の精神的なエネルギーに影響を与えているのだろうと思っています。

こうして書いてみると、
母の人柄は確実に私の中に生き続けていることにこれを書いていて気づきました。

血の繋がりってスゲーなって。

たぶん少なからずチビにも繋がっていくわけです。

こちらが私の母。若いころの写真です。
似てるでしょ。

それから最後に母と同じ病気で今闘っている方がいらして不安にさせてしまったらすいません。

もう、30年以上前の話しで、最近は医療も発達して随分状況が違う様ですね。

母がどの様な症状だったかなど詳しいことは覚えていません。

大昔の話として頂ければと思います。